2011年1月5日水曜日

ニッポンで最初のパンは伊豆で作られたんだって!

このニュース:
ゆうゆうネット伊豆|詳細データ|第5回パン祖のパン祭: "江戸時代後期に日本で初めてパンを作ったとされる韮山代官・江川坦庵(たんあん)公の功績をたたえるお祭りです。メーンイベントの「全国高校生パンコンテスト」では、全国の高校生たちが「いずニューミニトマト部門」と「日本の朝食パン部門」の2部門で、パン作りのアイデアと腕を競います。また、毎年人気のパンの即売会や体験イベントのほか、坦庵公を訪ねる歴史めぐりバスも無料運行します。"
へ〜、なんで代官の江川坦庵がパンを作ったんだろう?


いろいろ調べてみて、わかった:

江川坦庵というひとを調べてみた:
江川英龍 - Wikipedia: 江川 英龍(えがわ ひでたつ)は、江戸時代後期の幕臣で伊豆韮山代官。通称の太郎左衛門(たろうざえもん)、または号の坦庵(たんなん)の呼び名のほうでよく知られている。地元の韮山では坦庵と書いて「たんあん」と読むことが多い。

洋学、とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させた。地方一代官であったが海防の建言を行い、勘定吟味役まで異例の昇進を重ね、幕閣入を果たし、勘定奉行任命を目前に病死した。

江戸時代で最も文化が爛熟したといわれる文化年間以降、日本近海に外国船がしばしば現れ、ときには薪水を求める事態も起こっていた。幕府は異国船打払令を制定、基本的に日本近海から駆逐する方針を採っていたが天保8年(1837年)、モリソン号事件が発生。幕府は方針に従って打ち払った。英龍としても代官としての管轄区域には伊豆・相模沿岸の太平洋から江戸湾への入り口に当たる海防上重要な地域が含まれており、この問題に大きな関心と危機感を持った。

こうした時期に川路聖謨・羽倉簡堂の紹介で英龍は渡辺崋山・高野長英ら尚歯会の人物を知る事になる。崋山らはモリソン号の船名から当該船は英国要人が乗っている船であるとの事実誤認を犯していたが、それだけに危機意識は一層高いものとなり、海防問題を改革する必要性を主張した。ところが当時の状況を見れば肝心の沿岸備砲は旧式ばかりで、砲術の技術も多くの藩では古来から伝わる和流砲術が古色蒼然として残るばかりであった。尚歯会は洋学知識の積極的な導入を図り、英龍は彼らの中にあって積極的に知識の吸収を行った。そうした中で英龍と同様に自藩(三河国田原藩)に海防問題を抱える崋山は長崎で洋式砲術を学んだという高島秋帆の存在を知り、彼の知識を海防問題に生かす道を模索した。

しかし、幕府内の蘭学を嫌う目付・鳥居耀蔵ら保守勢力がこの動きを不服とした。特に耀蔵からすれば過去に英龍と東京湾岸の測量手法を巡って争った際に、崋山の人脈と知識を借りた英龍に敗れ、老中・水野忠邦に叱責された事があり、職務上の同僚で目の上のたんこぶである英龍、そして英龍のブレーンとなっていた崋山らが気に入らなかった。天保10年(1839年)ついに鳥居は冤罪をでっち上げ、崋山・長英らを逮捕し、尚歯会を事実上の壊滅に追いやった(蛮社の獄)。しかし英龍は彼を高く評価する忠邦に庇われ、罪に落とされなかった。

水野忠邦、鳥居耀蔵が失脚した後に老中となった阿部正弘にも評価され、正弘の命で台場を作成した。同様に反射炉も作り、銃砲製作も行った。現在も韮山に反射炉跡が残っている。また、造船技術の向上にも力を注いだ。さらに近代的装備による農兵軍の組織を企図したが、その途上の安政2年(1855年)1月16日に病死。享年55(満53歳没)。跡を継いだ長男英敏が文久3年(1863年)に農兵軍の編成に成功した。また、英敏の跡を継いだ英武(英龍の5男)は韮山県県令となった。
で、パンとのつながりはどうなっているのか:
江川英龍 - Wikipedia: "国防上の観点から、パンの効用に日本で初めて着目してパン(堅パン)を焼いた人物である。日本のパン業界から「パン祖」と呼ばれている。"
そうなのだ。彼がパンを作ったのは「国防上の理由」なのだ。

これは八甲田山で陸軍兵士が多数死んでしまった事件でもあきらか。厳寒期には握り飯は凍ってしまい、食えなくなるのだ。日本陸軍は満州で苦戦したのも、中国軍兵士のキビ団子は凍らなかったが日本軍兵士が食う米の飯は凍ったことが大きな理由。更に脚気を引き起こし実戦で死ぬ以上の兵士が脚気で死んでしまった。ところが陸軍軍医総監の森鷗外は「米こそニッポン人の命だ!」と頑張って、米食に固執した。八甲田山の悲劇から日本陸軍は何も学ばなかったのである。

第二次世界大戦でも、日本軍は米食にこだわったために兵站が伸びきってしまい(かさがはるコメの輸送には手間暇が掛かる)敗れ去ってしまった。日本軍の兵力を探るために日本軍キャンプに潜入し便所の排泄物の増量から兵員数を推計した米軍特殊部隊は、日本軍の兵力を実態の数倍に過大評価するという間違いすら犯した。米のメシを食うとウンコの量が異常に増えるのだ。戦争向きの食事でないことは明か。

その米食の欠点を江戸時代に既に察知していた江川坦庵はエライ。いまの農村族議員は、それすら理解していないのである。100年遅れているな。

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