2011年1月25日火曜日

松崎町の神社仏閣【神社・仏閣まっぷ】

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神社・仏閣検索 松崎町 【神社・仏閣まっぷ】
地図、写真、それに口コミ情報まで入っている。おいらの勉強のためにちょっと抜き書き:


春城院 松崎町役場ホームページ 
松崎町役場の近く、同じ宮内地区にある臨済宗妙心寺派の古刹で、山号は龍崋山。

元和2年(1616)に創建、ご本尊は釈迦如来。
開基は渡辺五郎作という人だが、京都・妙心寺万国宗安禅師の門弟だった。遼天宗俊和尚を迎えて開山とした。

創建者渡辺家※の先祖渡辺織部孝綱は、徳川家康の船手組をつとめ、関が原の合戦に敗れた〝豊臣家5大老〟の1人宇喜多秀家(1573~1655)を、八丈島へ護送したという。

2代喜兵衛武は大坂の陣の時、50搬だて関船で家康勢に加わり、3代五郎七厚は病弱だったせいもあって禅門に入り、春城院※(当初は春城庵と称した)を建立した。
渡辺家代々の墓もこのお寺にある。

天保年間(1830~1844)にはさびれ、安政年間(1854~1860)に続発した大地震や津波で、廃寺同然となっていたのをその後、渡辺家の米蔵を移築して庫裡にしたこともあったそうだ。”

永禅寺 松崎町役場ホームページ :
"岩科北側1312にある臨済宗建長寺派のお寺。

第80代高倉天皇(1161~81)の時代、伊豆に流された文覚上人が護持していた釈迦如来をこの地に安置。ここを嵯峨野と名づけ、お堂を建てたのが始まり。"

天然寺 松崎町役場ホームページ 

”国の重要文化財・岩科学校※の隣接地、岩科地区野田にある浄土宗の古刹で、山号は岩科山。応仁2年(1468)の創建当初は、松崎地区伏倉にあったが、それが水害にあって流失したため現在地に建て替えたという伝承もある。天然寺は渡辺家代々の菩提寺である。

このお寺には歴史上非常に貴重な古文書が数多く所蔵されており、毎年1回、境内の土蔵から運び出して曝書(虫干し)が行なわれる。

この中には天正18年(1590)、下田城攻略直前の秀吉がその軍勢に発した掟書(話題のサロン「秀吉軍の松崎上陸」※)をはじめ、慶長3年(1598)に記録された「豆州西浦岩科江之御縄水張」、黒船の外国人が岩科にきた場合の心得を書いた文書などがあり、その数は1,000点余におよび、山岡鉄舟の書もある。”

浄感寺 松崎町役場ホームページ :
"阿弥陀如来を本尊としてまつる浄土真宗本願寺派のお寺。鎌倉時代後期の永仁年間(1293~1299)に創建された。開基は浄信上人。

元禄の大火で全焼してから衰退していたが、13世の本多正観※によって本堂が再建され、再び隆盛を取り戻したといわれる。

弘化4年(1847)建築の本堂は、「長八記念館」※になっており、松崎の生んだ名工・入江長八※の作品とともに、堂宮彫刻の名匠・石田半兵衛※作の唐獅子が見もの。

長八の墓、記念碑(碑文は芸術院会員結城素明画伯)、胸像(日展審査員堤達男氏作)もある。
"

船寄神社 松崎町役場ホームページ:
"祭神は積羽八重事代主命(つみはやえことしろぬしのみこと)。創立年月は不詳であるが、所蔵の由緒書によると「昔神功皇后の新羅遠征の時、この神がその艦を守ったといういわれに基づいて船寄神社と名づけたのであろう」とある。

毎年、11月3日には神輿の浜降り、三番叟が奉納される。"

伊那下神社 松崎町役場ホームページ :
"彦火火出見尊を祀る。

第14代仲哀天皇の妃・神功皇后が神のお告げにより新羅を討ったころ、同国の人が長門国豊浦(山口県)へ訪れ、さらにその後伊豆のこの地にきて住吉三柱大神をまつり、「唐大明神」と称したのが始まりという。通称「下の宮」。
国司から幣帛を奉納されるほどの社格と神階従4位上を与えられて、伊那上神社と同様に源頼朝をはじめ、多くの武士たちから崇拝された。旧郷社。

国宝の「松藤双鶴鏡」藤原時代の萩薄蝶鳥鏡、室町時代の七宝繁双鶴鏡、金山奉行兼伊豆代官・大久保石見守長安が寄進した金銅製吊り灯籠(静岡県指定文化財)、韮山代官・江川太郎左衛門筆の扁額など社宝が多い。

境内には、周囲8m、高さ22mにおよぶ大イチョウの木、珍しい畳表の碑(「桜田おもて」)、名水(「神明水」)もある。"

吉田寺(きちでんじ) 松崎町役場ホームページ :
"中川地区の吉田字谷戸にある安養山吉田寺は、尼将軍北条政子がわが子・頼家の冥福を祈って建てた寺。政子は北条時政の娘であり、源頼朝の妻である。

頼家は正治元年(1199)頼朝の死によってそのあとを継ぎ、建仁2年(1202)征夷大将軍となったが、祖父時政によって将軍の権限を奪われた上、北条氏の討伐を企てて失敗し、伊豆・修善寺に閉じ込められ、元久元年(1204)7月18日追手によって殺された。ときに22才。

吉田寺の本尊は、高さ60cmの阿弥陀如来像。「尼将軍頼家卿菩提のため、仏工運慶に命じて七仏を作らしめ、当寺を草創して像を安置す」と伊豆誌に記されており、寺は文保2年(1318)後醍醐天皇の時代、僧水月により再興された。"

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