2012年9月15日土曜日

向井老の隠遁場所(跡)

むかし向井さんという人物がいた。氏は向井、名は七男也。名前からして七人兄弟の一番下と言うことだろうが詳しくは知らない。小さいとき住んでいた宝塚の一軒家は、なんでも大きなガラズ窓がある温室のような家で、夜になるとよく蝙蝠が飛んできて窓ガラスにぶつかったとか言う話を聞いたから、明らかにいわゆる阪神間のいいとこのボンボンであったようだ。高等学校は京都の名門公立高校。外国語大学に進み、その後某総合商社で貿易の営業をやっていた。多才多能。なんでもできた人だが、特に外洋ヨットをこよなく愛し、その人柄は多くのヨットマンを魅了した。日本ヨット界の創生期から油壺港の主的存在でもあった。若い頃に当時の花形職業であったスッチーを射止めて結婚したが、すぐに分かれ、そん後は生涯独身を通した。女性にこよなく愛された向井さんが独身を通したのは「油壺七不思議」の一つでもあった。

いつもニコニコしていたが、人を見る洞察力は驚異的で、他人に少しでもイイカッコウシイや偽善の臭いを嗅ぎ取ると、辛辣な(でも言われた相手はすぐには気がつかない遅効性の〕コメントをにこやかな表情を変化させることなく返すのが常であった。文化的に京都の影響を強く受けたのだろう。残念ながらサラリーマンには向いていなかった。案の定、中年に達する前に会社を退職し、その後いろいろ職業を替えたが、60代でヨットも止めて隠遁生活に入った。隠遁場所として選んだのが、西伊豆の松崎岩科地区であった。

松崎は風光明媚な土地で、海も山も文化もあり、隣人とも親しくなり、本人はここでも生活が大いに気に入っていたようだった。ただ東京からはとにかく遠く、なかなか友人たちも頻繁には訪問出来ずにいた。小生も当時は海外にいたので話に聞くばかりであったが、ある日突然、向井さんが松崎を引き払い老人養護ホームに入所したと聞き驚いた。イナカ特有の隣人たちとのトラブルが原因であったと聞く。向井さんは去年亡くなられ、油壺沖での散骨式には大勢の船が参加した。小生も船を相模湾まで回すつもりであったが事情があり直前に出来なくなった。せめて向井老が長く一人で住んでいたところを見ておきたく、住所を頼りに今回見学に行ってきた。現在は家も建て直され工芸家のアトリエとして使われている様子だが、付近の環境は当時のままだと思う。写真を撮っておいた:


裏には小川が流れ、樹木が生い茂り、付近には民宿が二三軒あるだけの寂しい土地。今は道路から家まで空き地になっているが、この土地の通行権を巡りトラブルがあったとのこと。よそ者がイナカで揉めると勝ち目はまず無い。向井老も苦労したようだ。

向井老は東京では高田馬場の点字図書館横に住んでいた。駅から近く便利な生活環境だった。今の世は「地方の時代」とやらで、玉村豊男などがやたらに田舎生活は素晴らしいと書き散らしているが、いろいろ考えさえられる話である。でも、東京にいても同じことだったかも知れない。日本という巨大なムラ社会は、向井老のような人間には、とにかく住みにくいからである。

草刈り後の写真

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草刈り前の写真

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